通勤電車車内-物理空間と意識空間の境界空間

通勤電車車内-物理空間と意識空間の境界空間

執筆者:尾崎果南(M2)

朝夕の通勤電車車内では、「電車内」という物理的空間と「スマホ」を介した意識的空間の境界が、高密度、高頻度で揺らぎながら発生している。

fig.1

「電車内で多くの人がスマホを触っている」というだけの今では日常的な異様な光景をこのように捉えてみる基礎として、ユクスキュルの提唱した環世界の考えがある。

環世界とは、生物には生物の数だけ別の世界が存在し、同一の世界にすべての生物が存在しているわけではない、という考えだ。

たとえば、ダニは人間に比べかなり発達した嗅覚と温度感覚を持っているが、視覚による知覚はできない。人間は、嗅覚、温度感覚、視覚をどれも持っているが、嗅覚と温度感覚はダニよりもはるかに鈍い。

ダニと人間では受け取る信号が異なり、そのため両者にとっての空間は全く異なる、ということらしい。

この信号を軸とする世界の構築観を頭に置くと、スマホに夢中な人は、それぞれ全く別の信号を受け取っている。

さらにこの環世界の考えは、空間が先か、存在が先か、という問題に際して、もちろん後者に立っている。

よって、ここでも存在が先という立場をとると、スマホに夢中になっている人はもはや「電車内」という空間にはいない。その人が知覚しているのは、電車内で流れるアナウンスでも、開閉するドアでもなく、もちろんスマホを触る指の感触でもない、距離的には離れた友達の現在や、欲しいと思っているオーディオのスペックだ。

fig2

そういう話なら、本を読んでいる人や妄想をしている人も同じで、スマホに限ったことではなさそうだが、スマホがこれらと違う点、物理的空間を共有する個人により容易に環世界の移動を可能にすると感じる点は、その世界に本人以外もリアルタイムで介入できる点だ。つまり意識空間の中に、他の個体が存在している。(fig2)

電車内、特に朝夕の通勤電車内は、一人の人が多く、毎日の繰り返しのルートのため行き先に気を向けている人も少ない。そんな車内では、皆スマホをプラグに築いた世界に行っていて、車内にはいないと感じる。

だが、そのような人たちは突然、いとも簡単に車内に戻ってくる。
ー同僚と会った、降車駅についた、こどもが泣いた。

その瞬間、ヒトが共有する環世界―物理的空間と意識的空間の境界を感じる。

電車内は、たくさんの人が限定的な物理的空間に存在しながら、全然違う意識的空間にいて、それだけでも奇妙なのに、さらに駅という一定の間隔でその境界の揺らぎに周期がある、大変おもしろい物理空間と意識空間の境界空間だ。

一度、そういうふうに電車内を見てみてほしい。
その光景にどんな感想を抱くのか、
意識的空間と物理的空間の関わり方は変わるのか、
もしくはこんな見方もある、など
何かおもしろいことを思いついたら教えてほしいです。

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