許容する境界とその空間
許容する境界とその空間
執筆者:北野湧也(M2)
「境界空間」について考えようとすると、「境界」という漠然とした概念に躓いて、遠くに思考を巡らせてしまう。
まず、「境界」とはいかにも人間らしい概念だと思う。
そもそも、万物が絶え間なく流動し、循環し続ける世界は、明確な境界という概念が存在し得ない構造をしているはずである。しかしその世界へ、後に人間が自らの明確なテリトリー(家や村、そして都市といった社会)を、原初的な築く行為、すなわち建築を用いることで主張し始める。それを契機として明確な線で表される「境界」が世界に芽生えたのではないだろうか。
原初的建築の発生を促した人間の防衛本能とその本能の要求に応えるような建築の発展は、世界に人間主体による境界を施した。それらは建築による塀や壁といった物質的なものから、法による敷地境界線や高さ制限など目に見えない秩序としても主張され、時代を追うごとに加速、蓄積されてきた。
しかし現代社会において引かれる境界は、多くの人間の手に負える範囲を超越しているようにも感じる。原初的には誰もが自らで土地を見つけ、建築に着手し、居場所を得てきた。対して、現代では建築という行為が学問的、専門的な存在へとならざるを得ないほど強固な制約が課され、それを扱えうる経験と知識を有した専門家による一方的な供給という状態が作り出されてしまった。すなわち、人間のために建築や法の性能を上げ、境界が強力に働くほど、建築はより多くの人間と乖離した存在となってしまうというジレンマがある。
こういった現状に対して、法的なアプローチは困難であるかもしれないが、建築的なアプローチであれば扱うことができるのではないだろうか。その一つとして私は「許容する境界のつくり方」に興味をもっている。ここでは、例えば動植物、光や風、音といった外的要素が境界に干渉することを許容することを指し、それは明確な境界が無い流動的、循環的な世界にわずかに近いような状態である。
そして、私は「テキスタイル」にその一つの可能性を感じている。一般的に服やインテリアなどとして流通するテキスタイルは、着脱や模様替えといった人間の手に負える範囲を前提とした特性を元来持ち合わせている。そしてカーテンがその想像に容易いように、風や地球の引力がなぞることで現れる襞には、自然の秩序がその造形として表出している。すなわち、テキスタイルは人間と建築の両者に対して物理的に密接な関わりを持ちながらも、実はその材料特性と造形において、人間や自然の干渉を許容していると言えるのではないだろうか。
私はかねてよりカーテンに興味があり、その可能性を模索してきたが、なぜここまでカーテンに固執するのか自分でも疑問であった。強固な建築の中でわずかに空間に干渉することのできる優越と、工業的で無機質な建材の中に奔放に揺らぐ華やかなその様。きっと、そんなところに魅力を感じていたのではないかと自覚しつつ、実はそのカーテンも建築において許容されていた余地であり、故に稀有で異質な存在としての魅力を発していたのだと思う。
また、テキスタイルというある種の許容性を孕んだ境界が、直接的に建築へ参入できれば、呼応するように空間自体も変化していくと考える。壁などといった明確な線としての境界は、それ単体では空間を抱えることができないが、他の干渉を許容したことによって明確な線では表せられなくなった境界は、それ自体に空間を抱えることのできる懐を持っている。子供の頃、カーテンやシーツにくるまって遊んでいたことを思い出せば、テキスタイルは自分だけの小宇宙を空間として内包していたし、それは同時に外界との境界を形成していたのだと気づく。
実は我々の多くが境界空間を作り出す小さな建築をしていたのに、現代の建築をそれに重ねることはとても難しい。それほどに建築と人間との距離は遠い。
だからこそ、今の建築に許容する余地を与えてみたい。
建築を少しだけ自分ごとで身近な存在に考えられるきっかけになることを期待して。