時の境界

時の境界

執筆者:酒見助(M2)

 

 過去と現在の境界となる空間とは何か。

ここでは、物理的空間を指す本来の境界空間の定義とは少し外れるのかもしれないが、心理的に現在と過去の境目に自分が存在しているような心地となる場を、過去と現在の境界空間として論じる。

 建築において、過去と現在といえばリノベーションが頭に浮かぶが、日本では建築的、景観的な価値が認められたものを対象として行われるものが大半であり、そうでないものは容易に過去を捨て去る再開発が行われる。これにより生み出される空間が、それらの境界空間とならないことは言わずもがなであるが、その逆も然りである。価値が認められた国内の事例の多くは、保存的改修が行われ、その空間は過去そのものであり、現在との境界とはならないと考える。

 では、どのような空間が過去と現在の境界となるのか。今回、スイスで訪れたMFO-Parkという公園を題材として考えてみる。

 チューリッヒ北部、エルリコン駅から徒歩数分。住宅街やスーパー、オフィスが立ち並び、中心街の喧騒とは離れた街の中に、それは突如として現れる。高さ17m長手100mに及ぶ鉄骨フレームの周囲全面に蔦が這う構築物は、街の中で異様な振る舞いを見せている。

 そんな構築物の背景は、この街の過去にある。この一帯はかつてスイス最大規模の兵器工場であり、人々の日常とは隔絶されていた暗い過去からの転換の象徴として、再開発地区の中心にMFO-Parkが作られた。この公園は、単に植物が広がる明るい場を街にもたらすだけでなく、巨大な鉄骨のフレームがかつての兵器工場のスケールと同等に新築され、工場建築独特の大空間を存置し、この街の過去を想起させる引き金となっているのである。

 何も知らずに訪れ、ここがかつて兵器工場であったことを認識できる人はまずいないであろう。しかし、この稀有な構築物に少しばかりの疑問を抱く人は一定数いるであろう。その疑問を抱かせた時点で、この作品は過去と現在の境界空間として成立していると私は思う。

 疑問をきっかけにこの街の過去を知る人、またこの街を昔からよく知る人。その人々の視界には、このパーゴラの下で子供たちが駆け回る風景と、かつてこの大空間に広がっていた産業風景とが重なる。

 決して顕示的なものではない。目には見えない隠示的なものに起因して回顧する行為により、私は過去と現在との狭間にいるような感覚を得た。

 過去と現在の境界空間とは、新築、改修に限らず、かつてのある他律的な規則に基づいた空間が、過去の風景を微かに示唆する装置となる時に生まれるものなのだろうか。

  まだ、自分なりの解と呼べるものにも辿り着けていない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です