『暇と退屈の倫理学』
『暇と退屈の倫理学』
執筆者:尾﨑 果南(M2)
『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎 , 新潮文庫)
「最近読んだ本」というテーマであるが、私はこの本を2年程前に読んだ。
そしてそれ以来、ことあるごとに読んでいる。
本書の主題は、題名の通り、「暇」についてである。
暇とは何か、なぜ人間は暇を感じ、そして退屈するのか。
ラッセルは『幸福論』の中で、20世紀の西欧諸国ではすでに多くのことが成し遂げられ、成すべきことのなくなった若者は不幸に陥っているのに対し、ロシアや東洋諸国ではこれから成すべきことがたくさんあるため若者たちは幸福だと述べた。
「人類が豊かさを求め努力し、その結果達成された世界では、成すべきことがないために人は退屈し不幸に陥る」
そんな逆説はおかしいのではないか、というのが本書の発端だ。
これは、現代日本でも多くの人が感じていることではないだろうか?
大体のことがそろった環境で不自由はないが、なんだがつまらない。
強いては、何かを求めて努力するはずが、達成されてもその先に幸福はない。
本書は、そういった日ごろみんながうすうす気づいている何とも言えない虚しさを真っ向から指摘してくる。そのため、中盤あたりで、かなりむなしい気持ちになってしまう。しかし、いつでも著者はそれはおかしいと主張し、この逆説への突破口を見つけようとする。
むなしい気持ちのままではいられないので、読み進めてしまうのだ。
1度読みだすとこのようなサイクルでどんどん読まされ、スピノザやハイデッガーの哲学もすんなりインプットされ、退屈の中でどのように生きることができるのか、結論に導かれていく。
だから私は何度も読んでしまっている。
このように、続きが気になる、読み進めてしまう構成になっているところが、本書の特徴でもある。
そのため、哲学に詳しくない人でもとても読みやすい。
この本を読んで、生活の何かが変わったとか、虚しくなくなったとか、私にはそういうことはないのだが、同じことを考える人がこんなにいるのかと安心したり、一瞬だけでも大丈夫そうに思えたり、そういった救いにはなっている。
倫理学とはどのように生きるのかを思考する学問であるが、それを学んでその通り生きられることはないと思う。ただ、生きる上でみんなが感じる不安や問題について言葉でまとめ、議論できるようにすることで、共有という形で昇華できるなら、私にとっては十分価値がある。
退屈という大半の人が一度はぶつかる問題を、多くの人と共有可能な形にしてくれた本書は、私にとって大切な一冊だ。